6月6日~7日にかけて、めだかの学校大学院に参加してきました。会場の奥山半僧坊は、中学の宿泊訓練以来です。2度目の拝観となるのですが、1度目のことはほとんど覚えていません。2度目というのにすべてが新鮮に映りました。
今回初めて聴く、特別講師の内山節(たかし)先生の講義はとても納得できるお話ばかりでした。群馬県の上野村というわずか8軒ほどの集落に住まわれているそうで、そこでの暮らしにおける暗黙のルールのようなお話をしてくれました。
暗黙のルールのベースは、「禍根を残さない」ということです。禍根とは「わざわいの起こるもと」という事で、自分たちが未来永劫そこで暮らしていく中で、絶対にもめ事を起こすような事はしない、考えないということです。それにより、好い関係を保つということになるわけです。一般社会では考えられないことなのですが、会議においても成人以上の全員参加で、一人でも異議があれば全員が納得するまでずっと議論を重ねる、多数決では絶対に決めないということです。助け合い生きることの重要さが、そこでは確立され保たれているということなのです。
個人を肯定する現代社会において、常にそれを否定するコミュニティが叫ばれてきました。近年の社会現象を見る限り、人と人との結びつきが重要であることは明らかです。明治維新以前までの日本は、個人を主張することなど考えられない世界で、人と人との関係を保つことが、未来永劫生きていくための術だったそうです。今後世界は、「個人の時代から関係の時代」へと移り変わっていくと先生はおっしゃっていました。
もう一点興味を引かれた話は、「自然」(しぜん)ということです。自然とは一般的に「天体・山川草木・動物など、人間社会を取り巻くもの」を指しますが、古来から明治維新以前までの日本では、自然という言葉は無かったそうです。それは人間も自然の一部であり、草木や動物などと分けて考えることはありえなかったということです。
現代社会では、人間圏と自然圏と完全に分離して生活が成り立っています。昔は自然を崇め大事にし、自分たちはほんの一部でしかないと考え、共栄共存を図っていました。地球環境云々が叫ばれている今は、人と自然との関係をしっかり見直す必要があると考えます。
これらのことからも現代社会現象は、「自分らしさ」つまり個人の肯定への執着がもたらしたことだという事がわかります。やはり先生のおっしゃるとおり、「個人の時代から関係の時代」へ移り変わっていかなくてはいけないと感じました。
今回初めて聴く、特別講師の内山節(たかし)先生の講義はとても納得できるお話ばかりでした。群馬県の上野村というわずか8軒ほどの集落に住まわれているそうで、そこでの暮らしにおける暗黙のルールのようなお話をしてくれました。
暗黙のルールのベースは、「禍根を残さない」ということです。禍根とは「わざわいの起こるもと」という事で、自分たちが未来永劫そこで暮らしていく中で、絶対にもめ事を起こすような事はしない、考えないということです。それにより、好い関係を保つということになるわけです。一般社会では考えられないことなのですが、会議においても成人以上の全員参加で、一人でも異議があれば全員が納得するまでずっと議論を重ねる、多数決では絶対に決めないということです。助け合い生きることの重要さが、そこでは確立され保たれているということなのです。
個人を肯定する現代社会において、常にそれを否定するコミュニティが叫ばれてきました。近年の社会現象を見る限り、人と人との結びつきが重要であることは明らかです。明治維新以前までの日本は、個人を主張することなど考えられない世界で、人と人との関係を保つことが、未来永劫生きていくための術だったそうです。今後世界は、「個人の時代から関係の時代」へと移り変わっていくと先生はおっしゃっていました。
もう一点興味を引かれた話は、「自然」(しぜん)ということです。自然とは一般的に「天体・山川草木・動物など、人間社会を取り巻くもの」を指しますが、古来から明治維新以前までの日本では、自然という言葉は無かったそうです。それは人間も自然の一部であり、草木や動物などと分けて考えることはありえなかったということです。
現代社会では、人間圏と自然圏と完全に分離して生活が成り立っています。昔は自然を崇め大事にし、自分たちはほんの一部でしかないと考え、共栄共存を図っていました。地球環境云々が叫ばれている今は、人と自然との関係をしっかり見直す必要があると考えます。
これらのことからも現代社会現象は、「自分らしさ」つまり個人の肯定への執着がもたらしたことだという事がわかります。やはり先生のおっしゃるとおり、「個人の時代から関係の時代」へ移り変わっていかなくてはいけないと感じました。