踏みしめて

 カメのように一歩一歩しっかり踏みしめて、前へ進んで生きたいな、と思ってます。

事業の成功から一転人生の転機となったがん

 荒廃が進む現代日本、その根源は日本人の精神の弛みにある。それを立て直すために「武士道精神の復興」に行き着いた田端さん。
 私も同感します。現在全国でまちづくりが盛んに行われています。しかし、どんなにいい事業でも住民の意識が付いてこなければ、全くの無意味となってしまいます。まずは、考え方や精神、つまり心の立て直しが最重要課題であり、それができれば全てにおいて意味の有る事業が展開されていくと考えています。


 北川 そもそも事業をやられていた田端さんが賢人塾を始めるにあたって、何かきっかけはあったのですか。
 田端 私は学生時代、周りの人たちから政治家になれと言われていて、私も特に目標がなかったからその気になっていたんです。選挙には「鞄、看板、地盤」の「三つのバン」が要ると言われているので、鞄ぐらいは自分でつくろうという動機で十九歳から事業を始めました。
 しかし、実際に政治家やその秘書の方々とお会いしてお話ししてみると、志というよりも汚い臭いがしてきて幻滅しました。一方でビジネスは、最初の頃はやればやっただけ結果が出る。要するにお金持ちになるわけです。それで増長してしまって、慢心した頃に足元をすくわれました。それが先ほど申し上げた二十二歳の時でした。
 いまにして思えば、あれも神様が私に気づきを与えるために私をのぼせるだけのぼせ上がらせて、突き落としたんだと思いますね。そこで学びましたから、二十代半ばで再度事業を始めてからは、時代はバブルに突入していきましたが、「これはまやかしだ、こんな状態はありえない」と思って経営していたので、バブルが崩壊しても一店舗もつぶれませんでした。
 その事業をやっていたときの会社名が「Wise men」だったんです。プレスリーの『Can'thelp falling in love』という歌に「Wise men say」という歌詞があって、そこから採ったんですが、外国と貿易をするようになったらまた愛国心が深まり社名を横文字から「報恩感謝堂」と和名に改めました。
 北川 どういう事業をされていたのですか。
 田端 その頃私の周りには非行少年が多く、どうにかして更生させてやりたいと思いました。しかし彼らは昼はボーっとしていて、夜しか元気が出ないんですね。それで夜の六本木でカフェやレストラン、ライブハウスなど、いろいろやっていました。
 事業もうまくいったし、彼らとともに充実した日々を送っていましたが、二十七歳の時に私はがんになってしまいました。


 今日はここまでの紹介とします。次回は「経済と家庭は対極にある」というタイトルで紹介します。


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