田端さんの考え方が少し見えてきましたが、その原点はやっぱりお父さんだったんですね。
北川 ここでは具体的に子どもたちにどういうことを教えているのですか。
田端 先ほども申し上げたとおり、暮らしを通して茶道、華道、香道、書道、武道など日本の精神伝統文化を身につける中で、いまの日本に足りない父なる厳しさを持って、最も大切な躾(しつけ)教育を行っています。
いまでこそ地域にも根づいてきて、日本の伝統文化を学ぶ修養道場と理解されてきましたが、ここでは合図が太鼓だったりしますから、最初は新興宗教だなんだと随分誤解を受けました。
北川 ああ、最初はそうでしょうね。
田端 それでもめげず十年やってきました。
日々の暮らしの中で身についた思考や行動が重要であるという考えで、いま子どもたちには日常生活を通して、いわゆる「武士道の精神」を教えようとしていますが、実はその原点は私の父の教えにあるのです。
九州の熊本ですから非常に厳格で封建的な人で、それこそスパルタ教育で育てられましたから、自分が父の本当の子どもではないのではないかと疑った時期も長かったんですよ。
北川 お仕事は何をされていたのですか。
田端 小学校の教師です。スパルタだけどユニークな先生だったようですね。五十二歳で他界しましたが、教師になったのが三十二歳と遅く、後半は社会教育指導主事の仕事をしていましたから、実際に教壇に立ったのは十二、三年あるかないか。それなのに葬儀には教え子の皆さんが八百人くらい参列してくださいました。それも東京、名古屋、福岡、いろいろな所から駆けつけてくださったのです。この時、初めて父を誇りに思いました。
北川 おいくつの時ですか。
田端 私が二十三歳の時ですね。学生時代にやっていた事業に失敗し、行商をしている時でした。
その後、私も結婚し家庭を持って子どもができたり、事業を通してやんちゃな子たちを預かったりして、だんだんと父の思いが分かってきました。父は昭和のあの時代、私に武士の教育をしてくれたんだと思います。最近はあれだけ嫌いだった父によく似てきて、いまの私の思考パターン、行動パターンは父そのものです。
ここでは子どもたちに「逃げない、愚痴ない、諦めない」という「賢人塾受けて立つ精神」を教えていますが、これは父の教育方針そのものでした。だからこそ私も若くして事業に失敗し、大きな負債を抱えても逃げなかったんだと思います。
実は、父だけではなくうちは一族が教育者の家系でして、事業家だった私は突然変異とよく言われたものですが、結局私も同じように教育の道へ来てしまいましたからね。まあ、文部科学省には認可されていませんが。
今日はここまでの紹介とします。次回は「自分の都合だけでは生きられない」というタイトルで紹介します。
前記事より続く 「対談―北川八郎&田端俊久」
北川 ここでは具体的に子どもたちにどういうことを教えているのですか。
田端 先ほども申し上げたとおり、暮らしを通して茶道、華道、香道、書道、武道など日本の精神伝統文化を身につける中で、いまの日本に足りない父なる厳しさを持って、最も大切な躾(しつけ)教育を行っています。
いまでこそ地域にも根づいてきて、日本の伝統文化を学ぶ修養道場と理解されてきましたが、ここでは合図が太鼓だったりしますから、最初は新興宗教だなんだと随分誤解を受けました。
北川 ああ、最初はそうでしょうね。
田端 それでもめげず十年やってきました。
日々の暮らしの中で身についた思考や行動が重要であるという考えで、いま子どもたちには日常生活を通して、いわゆる「武士道の精神」を教えようとしていますが、実はその原点は私の父の教えにあるのです。
九州の熊本ですから非常に厳格で封建的な人で、それこそスパルタ教育で育てられましたから、自分が父の本当の子どもではないのではないかと疑った時期も長かったんですよ。
北川 お仕事は何をされていたのですか。
田端 小学校の教師です。スパルタだけどユニークな先生だったようですね。五十二歳で他界しましたが、教師になったのが三十二歳と遅く、後半は社会教育指導主事の仕事をしていましたから、実際に教壇に立ったのは十二、三年あるかないか。それなのに葬儀には教え子の皆さんが八百人くらい参列してくださいました。それも東京、名古屋、福岡、いろいろな所から駆けつけてくださったのです。この時、初めて父を誇りに思いました。
北川 おいくつの時ですか。
田端 私が二十三歳の時ですね。学生時代にやっていた事業に失敗し、行商をしている時でした。
その後、私も結婚し家庭を持って子どもができたり、事業を通してやんちゃな子たちを預かったりして、だんだんと父の思いが分かってきました。父は昭和のあの時代、私に武士の教育をしてくれたんだと思います。最近はあれだけ嫌いだった父によく似てきて、いまの私の思考パターン、行動パターンは父そのものです。
ここでは子どもたちに「逃げない、愚痴ない、諦めない」という「賢人塾受けて立つ精神」を教えていますが、これは父の教育方針そのものでした。だからこそ私も若くして事業に失敗し、大きな負債を抱えても逃げなかったんだと思います。
実は、父だけではなくうちは一族が教育者の家系でして、事業家だった私は突然変異とよく言われたものですが、結局私も同じように教育の道へ来てしまいましたからね。まあ、文部科学省には認可されていませんが。
人間学を学ぶ月刊誌「致知」2007.1月号より、北川八郎書籍
今日はここまでの紹介とします。次回は「自分の都合だけでは生きられない」というタイトルで紹介します。